大阪地方裁判所 昭和40年(ヨ)943号 判決 1966年2月11日
申請人
安井朝雄
右代理人弁護士
大島三佐雄
同
山上孫次郎
被申請人
国
右代表者法務大臣
石井光治郎
被申請人
大阪府
右代表者知事
佐藤義詮
被申請人
大阪市
右代表者市長
中馬馨
主文
本件仮処分申請を却下する。
申請費用は申請人の負担とする。
事実
第一、当事者の求める裁判
申請人代理人等は、「被申請人等は別紙目録記載の物件につき、一、埋立その他現状を変更する工事をしてはならない。二、売買、譲渡、賃貸、地上権の設定その他一切の処分をしてはならない。」との裁判を求め、被申請人等代理人等は主文第一項と同旨の裁判を求めた。<以下―省略>
理由
被申請人等の本案前の抗弁について
被申請人大阪市が地方自治法第二条第三項第二号、大阪市普通河川管理条例に基づき、道頓堀川に対し行政上の河川管理権を有することは、申請人においても明らかに争わない。そうだとすれば、被申請人大阪市が右河川管理権の行使として行なう工事は、行政事件訴訟法第四四条の公権力の行使に当る行為に該当し、それについて民事訴訟法の規定による仮処分を求めることは許されない。
しかし、河川管理権の行使としての河川の管理又はこれを使用する権利の規制とは河川を河川として公用使用を続けることを前提とするのであつて(もつとも公用廃上行為それ自体は別の問題である。)、売却を予定して河川の全部又は一部を埋立て、且つその埋立地を他に売却する如き行為は、たとえ、それが当該河川改修工事の費用を捻出するためのものであるとしても、河川管理権の行使としてはその範囲を逸脱したものである。本件において、申請人は道頓堀川敷地の所有権を主張し、道頓堀川敷地につき一、埋立その他現状を変更する工事 二、売買譲渡その他一切の処分行為の各禁止を求めているが、この禁止を求める行為のうち、売買、譲渡その他の処分行為が河川の管理行為に含まれないのは勿論、埋立その他の行為もそれがその部分の公用廃止と共に行なわれる限り、被申請人大阪市の公法上の河川管理権の範囲に属するということはできない。
従つて、本件において申請人が仮処分の対象とする被申請人等の各行為は、行政事件訴訟法第四四条にいう行政庁の処分その他公権力の行使には該当しないと解されるから、被申請人等の本案前の抗弁は採用できない。
本案について
一、≪証拠略≫によると、道頓堀川の現況は、東横堀川の南端に接する地点、左岸大阪市南区二ツ井戸町、右岸同区大和町から同区内を経て同市西区と浪速区の境界線上を木津川に合流する地点まで、全長約二、七四五米、川幅約三六・二ないし五三・五米の水流であり、道頓堀川には上流の淀川の流水の一部と寝屋川の流水が合したものの一部が東横堀川を経て流入し、木津川へと流下していることが認められ、又≪証拠略≫を総合すると、道頓堀川は慶長一七年(西歴一六一二年)道頓、安井治兵衛、その弟九兵衛(道卜、初代安井九兵衛)、平野藤次(郎)等が梅津川という旧河を拡さくする工事を起こし、着工の翌年治兵衛が病死し、道頓も元和元年(西歴一六一五年)五月大阪夏の陣において西軍に投じ大阪城落城の際果てたので、その後安井九兵衛、平野藤次が残工事を続け、元和元年一一月木津川に流入する川口の工事を終り全長を完工したものであること、大阪の役後松平忠明が大阪に封ぜられ、忠明は元和元年九月右堀川の完工に先立ち家老四名の連署状(甲第二号証、「口上」と題する書面)をもつて、平野藤次、安井九兵衛に対し工事の完工と沿岸の開発を促したこと、道頓堀川は初め「南堀川」と称していたが、右工事の完工後松平忠明が道頓の遺功を録すため道頓堀川と命名し、以来道頓堀川と呼称されるようになつたこと、道頓堀川は、慶長年間から江戸時代前期にかけて堀さくされた東西横堀川、江戸堀川、京町堀川、海部堀川、長堀川等の大阪市内の他の多くの人工の堀川と同様、江戸時代主として舟運の水路(運河)として利用され、沿岸地域の開発と繁栄に密接な関連があつたことの各事実が推認される。
そして明治維新後、被申請人大阪府が道頓堀川の取締に当り、明治一八年二月以降水路取締規則に基づきその管理をするようになつたこと、道頓堀川が明治三四年六月一日以降旧河川法の準用河川に認定され、昭和三二年四月一九日右準用河川の認定が解除されたこと、昭和二〇年四月一日大阪府知事が準用河川の使用並びに占用許可権を大阪市長に委譲したこと、準用河川の認定解除後、道頓堀川は被申請人大阪市が大阪市普通河川管理条例に基づいて維持、管理し現在に至つていること、被申請人大阪市が明治年間、道頓堀川沿岸の舟曳道と外側の官有道路との間の浜地(幅約六米ないし一〇米)の大部分を、被申請人国から譲り受けて私人に払下げ、又大正七、八年には道頓堀川全域に浚渫と護岸工事を施行し、その際両岸を帯状に埋立てて約一、八三〇坪の土地を造成し、のちにこれを被申請人国から譲受けて沿岸住民に売却したことの各事実は、申請人において明らかに争わない。
二(一) 申請人が道頓堀川の敷地について、所有権取得事由として主張する事実の要旨は、「(イ) 道頓堀川敷地は安井道頓が豊臣秀吉から拝領した土地であり、道頓堀川は道頓と安井九兵衛(道卜)等が右拝領地に自己の費用で堀さくした運河である (ロ)、道頓と安井九兵衛(道卜)は兄弟(血縁からすれば従兄弟)で、九兵衛は道頓の死後家名相続により右道頓堀川敷地等の所有権を承継取得し、大阪城主松平忠明においてもそれを認め、九兵衛等に道頓堀川の管理権を与えた (ハ)、申請人は道卜の一二代目に当るが、申請人の先祖は、江戸時代道頓堀川の沿岸に広大な私有地を所持し、道頓堀川についても、代々沿岸の住民から維持費を徴収して川を維持、管理し、敷地を所持していた (ニ)、従つて明治に入つて近代的所有権制度の確立と度に、申請人の祖父九代目安井九兵衛がその敷地の所有権を取得し (ホ)、申請人はその土地所有権を相続により承継取得した。」というのである。
しかし、先ず道頓と安井九兵衛(道卜)の身分関係について、<証拠略>によると、道頓に関しては、道頓が河州久宝寺村の安井家の出身で、安井九兵衛(道卜)とは兄弟もしくは従兄弟の関係にあつたとする従来の通説的見解に対し、道頓が摂州杭全郷平野庄の成安家の出で、安井氏とは由来を異にし、九兵衛とも身分上の関係はないとする有力な反対説のあることが認められる。しかも本件で提出された安井氏由緒書五通のうち作成年代の古い延宝五年(西歴一六七七年)一二月一二日付、覚文一〇年(西歴一六七〇年)一一月一五日付、貞享三年(西歴一六六八年)七月一九日付各由緒書によれば、道頓はいずれも成安道頓と記載されており、他の二通には単に道頓とのみ記載されて氏の記載がなく、且つ本件では他に道頓が安井氏であることを示すべき系譜、由緒書等の右文書資料は提出されておらず、反面≪証拠略≫によると、八尾市史史料編中にある安井文書にも「成安道頓が元和元年五月七日大阪城中で卒した」との右文書記録があり、又同史料編には右反対説の根拠となつている奥野文書(成安家の系譜)が収録されているが、それによれば道頓は摂州杭全郷平野庄の成安家の系譜のなかに成安家の人として記されていることが認められる。従つて、道頓が従来いわれてきたように安井氏であるかどうかはかなり疑わしいといわなければならない。そうだとすれば申請人の先祖に当る安井道卜が道頓の家名を相続したということも、つぢつまが合わなくなり、申請人が道頓の後えいに当るということも言えないことになる。
次に、道頓堀川敷地が申請人の先祖が拝領した土地であるとの主張について考察するに、この主張に副う疎明としては一応≪証拠略≫(紀功碑文)の「定次父子督工鑒壕秀吉賜城南以賞之当此時煙火漸密而城南則蘆萩叢生朱民居道頓……欲漕渠以便招徠慶長十七年僦役夫起工…」という記載、≪証拠略≫(安井氏由緒書)の「慶長拾四年壬子年大阪只今之道頓堀川其時分ハ野原ニ而御座候処平野藤次(郎)安井九兵衛安井治兵衛成安道頓御公儀様江申上上下二拾八町被下自分銀子にて堀をほり表向裏行弐拾間宛之屋敷を申請家を立町屋に仕候」という記載をあげることができ、≪証拠略≫(いずれも安井氏由緒書)にもこれに類似した記載の存することが認められる。
しかし、道頓が秀吉から拝領したという土地の正確な位置範囲等は、本件の全疎明資料によつても具体的に明らかにし得ないから、道頓堀川敷地がその拝領地に含まれているかどうかも必ずしも明確とはいえない。又右各安井氏由緒書の記載は、道頓堀川堀さく当時の書付けとして現在する前顕甲第二号証、元和元年(西歴一六一五年)九月一九日付「口上」と題する連署状を一つの根拠していると考えられるところ、右連署状の「南堀河之内先年寄如有来両人二申付候条早々家を立てさせ可申候其上両人之耆右寄取立申堀川之儀候間万事肝煎才覚可仕候」との文意は、松平忠明が平野藤次、安井九兵衛に道頓堀川堀さく工事の完工と沿岸に家屋を建設すべきことを促したものと解するのが相当であり、後半の肝煎才覚(世話をしたり、工夫したりするの意)を命じた部分も、堀川の管理について当時何らかの権限を付与したとしても、それによつて安井九兵衛に道頓堀川もしくはその敷地の私的な所持を認めたものとはいい難い。従つて、これによれば前記安井氏由緒書が「上下二拾八町被下」としている部分は正確性を欠いていることになる。
そればかりではなく、明治時代以前には後記のように近代的土地所有権制度は確立されていなかつたから、豊臣時代に土地を拝領したとしても、道頓堀川の水流敷となつた土地がのちのちまで所謂拝領地として存続し得たかどうかは疑問であり、豊臣時代における拝領の事実の有無だけから直接に現在の土地所有権の帰属を認定することはできない。
従つて、本件において申請人の主張が肯認されるためには、結局明治時代近代土地所有権制度が確立した際、申請人の先祖である当時の安井九兵衛(申請人の主張によれば道卜の九代目に当る。)において、道頓堀川敷地の近代的土地所有権を取得したことが認められなければならない。
(二) ≪証拠略≫を総合すると、江戸時代に、武家宅地、町地百姓地等を始め民有的性質を帯びる土地は存在し、ただ人民のこれらの土地に対する支配権は、多くの場合現実の用益と結びついた具体的な支配を意味したことと、これらの土地が他面幕府又は封建領主の領地支配にも服し、この面からくる種々な負担、制限が加えられていた点で、抽象的絶対的支配である近代的土地所有権とは異なつていたこと、明治維新後明治政府は、封建領主の土地領有を廃し百姓所持の原則を宣言して明治元年一二月八日付行政官布告第一〇九六号を始め、明治四年九月四日付大蔵省第四七号、明治五年二月一五日付太政官布告第五〇号等により江戸時代土地に附着していた封建的な制限を次々に解消し、それと共に明治四年一二月二七日付太政官布告第六八二号により先ず東京府下の市街地に地券を発行して地租を課し、明治五年二月二四日付大蔵省達第二五号(地券渡方規則)、同年七月四日付大蔵省達(持地地券渡方)、明治七年一一月七日付太政官布告第一二〇号(地所名称区別)等により、地租改正と土地所有権公認のために全国の私有地に地券を発行することにし、これに基づき明治六年から明治一四年にかけて全国的な地租改正事業を行なつたこと、右地租改正事業の内容は、全国の民有地を丈量し、個別に地価を定め地主に地券を交付して地租を課したものであり、その際地主の決定は一応旧来の検地帳、名寄帳を照合する等の方法により従来の土地支配関係をそのまま踏襲してなされたこと、明治政府の右のような種々の布告、通達並びに地租改正事業等によつて前記江戸時代の私人の土地に対する私権が漸次近代的な所有権に高められ、現在の近代的土地所有権制度が確立したことの各事実が認められる。
右明治初年の明治政府の布告、通達並びに地租改正事業の内容等からすれば、近代的土地所有権の帰属は、原則として江戸時代の土地に対する私権の確認によつて決せられたのであり、その際所有者として認められるべきであつた者は、一応当時現在の土地所有権に最も近い意味で、私的な土地支配を行なつていた者であると解するのが相当である。
ところで、前記のとおり道頓堀川は明治三四年六月一日以降昭和三二年四月一九日まで旧河川法の準用河川に認定されていたが、この点については、明治三二年の河川法準用令第二条に「……河川法に規定したる事項を準用すべき水流、水面または河川と認定したるものには、河川法第三条(敷地を除く)……およびこれに基きて発する命令の規定を準用する。」と規定されていたから、一応道頓堀川も私権の排除を規定した河川法第三条の敷地に関する規定は適用されなかつたと解せられる。
(三) よつて、江戸時代申請人の先租が道頓堀川敷地について、後に近代的な土地所有権として認められるべき私的な土地支配を行なつていたかどうかについて検討するに、≪証拠略≫を総合すると、大阪は、元和五年(西歴一六一九年)松平忠明が大和郡山に移封されたあと、明治維新まで幕府の直轄地であつたこと、松平忠明による町割の完成後、大阪は南組、北組、天満組の三郷に分かれ、三郷にある程度の自治が認められていたこと、当時の市制としては各組に惣年寄、組内の町々に町年寄がそれぞれ置かれ、幕府は町奉行を通じて町方を支配していたこと、安井道卜(初代安井九兵衛)は元和七年(西歴一六二一年)町奉行から南組の惣年寄に任ぜられ、又その頃道頓堀川の沿岸に家屋の増築を命ぜられて、道頓堀川南側に明屋敷の下附をうけ、ここに材木置場にして多くの町屋を建設したこと、その後道卜の承継人は明治維新まで代々安井九兵衛を名乗り、南組の惣年寄に任ぜられていたこと、安井九兵衛は江戸時代代々道頓堀川沿岸の川八町の水帳、絵図、浜地帳等を保管し、又日本橋札場と日本橋、長堀橋の普譜監督に与かり、且つ両橋の橋掃除定式諸入用の経費を、「安井勘定場」から、堺筋の町々と川八町に賦課していたことと、寛文一〇年(西歴一六六七年)から寛文一三年頃、当家の安井九兵衛が道頓堀川北側の宗右衛門町に三口合計表八〇間半口、新戎町に一口表一二間口、道頓堀川南側大和八南西角に一口表一〇間口(以上裏行はいずれも二〇間)の各家敷(立家のある土地を家屋敷という)と、道頓堀川南側樋屋敷町から大川ばた迄の間に表三〇〇間余り、裏行二〇間の明屋敷(立家のない土地を明屋敷という。この明屋敷には五口の畑地があり対価を得て他人に耕作を請合せ、或いは蔵を立借りさせたりして年貢銀をとりたて官へ相立てていたのであり、当時ここには前記平野藤次の承継人平野次郎兵衛も安井家と同程度の明屋敷を所持していた。)を所持し、その他玉造森町、河内久宝寺村にも請地、家屋敷等を所持していたこと、右道頓堀川南側の明屋敷は、元録一一年(西歴一六九八年)九月幕府が堀江開発を行なつた際、公儀御用地に召上げられて町屋敷になり、当時の安井九兵衛には野田村下福島村外島にその代替地が与えられたこと、延宝三年(西歴一六七五年)六月道頓堀川の南側と西側町裏の堤が洪水で越水して破損した際、道頓堀川南側に地所を所持した当時の安井九兵衛、平野次郎兵衛等が沿岸の下難波村庄屋、年寄等と共に堤奉行宛に御普請方を上申し、その際には町方での私普請を命ぜられて公僕による普請はなされなかつたことの諸事実が一応推認される。
しかし右事実は、安井道卜が道頓堀川の沿岸開発に功績があり、道頓堀川の沿岸に特定の地所を所持したことと、代々安井九兵衛が惣年寄として南組の行政に関与してきたこと等を明らかにするに過ぎず、江戸時代道頓堀川の維持、管理について、安井九兵衛がどのような権限を有していたのかは、必ずしも判然としない。右事実中、安井九兵衛が日本橋、長堀橋の掃除に必要な諸経費を各町に賦課していた点は、町内の公共用物である橋に関して安井九兵衛にその権限が認められていたことを意味するが、それ以上に水路である川自体の維持、管理に関するものではないし、≪証拠略≫(大阪市史第五巻二三八頁)によると日本橋、長堀橋等の架替や大修理の費用は町役として附近の町から取立てられていたことが推認されるから、安井九兵衛の右権限も惣年寄としての公の資格に基づくものとみるのが自然である。
又「安井勘定場」についても、≪証拠略≫によると、江戸時代大阪の船場や島之内では商家に限らずしもたや家で一般に「勘定場」を設ける習俗のあつたことが認められ、そうだとすれば安井家に「勘定場」が設けられていたからといつて、そのことからそれが道頓堀川の維持、管理費用賦課徴収のために特設されものであるということはできない。
むしろ前記事実中、道頓堀川の堤の破損について安井九兵衛や沿岸村民等が堤奉行宛に普請方を上申している事実は、一面公儀による普請が行なわれていたことを推測させ、道頓堀川の維持管理も幕府において掌握していたことを示唆している。この点に関連し、≪証拠略≫(大阪市史第一巻五一四頁)には、江戸時代大阪の河川の川浚に大川浚と内川浚の二通りあり、道頓堀川は東西横堀川、長堀川等と共に内川浚の区域にされていたこと、内川浚の費用は当初大阪町中より出銀したが、その後町奉行に納めるべき堀江上荷船床銀の一部を当てることにし、町中よりの出銀を停めたこと等が記述されている。
(四) ところで、前記のように江戸時代近代的土地所有権制度は未だ確立されておらず、当時道頓堀川のように相当大規模な水流の敷地について潜在的に土地を所持するという観念はなかつたと考えられるから、道頓堀川敷地を所持していたというためには、川の流水について何らかの私的な支配権を有するとか、或いは両岸の洪地を併せて所持する等、その構成物件について顕在的な支配を及ぼしていたことがなければならないと解せられる。しかるに≪証拠略≫によれば、江戸時代道路は人の歩く道で、貨物の運搬には主として川の舟運が利用せられていたこと、道頓堀川と並行してその北方に堀られた長堀川について、川橋の架替又は修繕、掃除等は当該町内の責任に属し、一般に川と橋と浜地の監視は町年寄の職責の一つであつたこと、元来川の浜地は公儀の所有地とされており、長堀川でもその浜地は純然たる公儀御用地と考えられ、岡側の町人が幕府から種々の制限の下に便宜これを借用しここに納屋等を建てていたこと、幕府は宝歴年間(西歴一七五一年ないし一七六三年)からこうした浜地の借用人に僅少の冥加銀を上納させていたことの各事実が推認され、本件においては道頓堀川が江戸時代これら他の人工の堀川と本質的に異なつた取扱をうけていたことを窺うべき何らの資料も存しない。
しかも、≪証拠略≫によると、道頓堀川の両岸並びに川の外側にある官有道路の外側に隣接する土地の全部について、明治時代の旧土地台帳および不動産登記簿に最初に記載された各所有名義人は、大阪市南区長堀橋筋二丁目一九番地の一宅地八一〇・三六坪が申請人の先々代安井健治であるのを除き、他はすべて申請人の先祖以外の人々であることが認められ、これによれば、少なくとも明治初年に至つて申請人の先祖が道頓堀川の両岸並びにその隣接地は右一筆の土地以外もはや地所を所持していなかつたことが明らかである。
申請人は、≪証拠略≫天保七年(西歴一八三六年)作成の「覚」と題する書面の記載をもつて、安井九兵衛が川八町の水帳等を個人的な資格で保管し、又これを保管していたことをもつて安井家が道頓堀川の維持費を沿岸の住民から徴収していたと主張するが、水帳は検地帳ともいい(御図帳の訓を混じて水帳になつたといわれている。)、河川の維持費に限らずあらゆる役等割当の基準ともなる公の帳簿であつたと解するから、安井九兵衛が水帳等を保管していたものも惣年寄としての公の地位に基づくものというべきであり、又水帳等が右のようなものである以上、この水帳等を保管していたことをもつて、安井九兵衛が道頓堀川の管理者として、沿岸受益者からその維持費を徴収する私的な権限を有していたということにはならない。
又≪証拠≫明治一〇年八月三〇日付「拝借浜地犬走石垣並惣石垣石賃ノ義ニ付伺」と題する書面についてみても、この書面は当時の安井九兵衛が「第二大区五小区長堀橋筋二丁目二二番地、二三番地浜地」(この地の現在の地番は本件で提出された疏明資料では明らかにし得ないが、この地が道頓堀川の浜地であることは書面の内容に明記されている。)について、該浜地は先祖が宝歴七年(西歴一七五七年)幕府から住居建家許可をうけ、幕府に冥加銀を上納してきた安井家の拝借地であり、同所の犬走石垣並惣石垣が安井家が築造し所持するものであるとして、右浜地の住民から相当の「石賃」を申受度、官に伺いをたてたものであるから、右書面をもつて、申請人の先祖が右浜地以外道頓堀川の全域に犬走り石垣、惣石垣等を築き、浜地全部を所持、支払していたと認めることができないのは当然である。
しかして、本件の全疏明資料を検討してみても、他に申請人の先代等において、明治初期近代的土地所有権制度が確立した頃、のちに近代的土地所有権に移行すべき、道頓堀川敷地に対する私的な支配権を有していたと認めるに足る疏明はこれを見出し難い。
三(一) 次に道頓堀川敷地が国有であるとの被申請人等の答弁について考えてみるに、その陳述の要旨は、「道頓堀川敷地が明治初年の地租改正の際民有地として認められたものなら、明治七年太政官布告第一二〇号等による官民有区分において『民有地第三種』(明治八年太政官布告第一五四号をもつて『民有第三種地』に『民有ノ用悪水路溜池敷堤敷及井溝敷地』が追加された。)の地券が発行されている筈であり、もし地券が発行されてなく地券台帳への登録もないならば、それは官民有区分において民有と認められず、右太政官布告の『官有第三種地』として官有地に編入されたことになる。」というのである。
道頓堀川敷地が地券の発行を受けておらず、地券台帳にも登録されなかつたことは申請人において自認しているが、一般的について、民有地として地券の発行をうけなかつた土地がすべて官有地に編入されたと解するのは相当でなく、道頓堀川敷地が官有地に編入されたかどうかも、道頓堀川敷地が右太政官布告第一二〇号の「官有第三種地」「山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有ニアラサルモノ」に該当したかどうかによつて決しなければならない。
しかも、近代的土地所有権制度が明治初年の地租改正を経て確立されたことは前に説明したとおりであるが、地租改正事業そのものは地租賦課の対象となる民有地の明確化を主要な目的にし、それによつて従来の私権に変動を生ぜしめたものではないから、もし右官民有区分において本来民有地であるべき土地が誤つて官有地に編入せられ、そのため地券の交付をうけられなかつた場合、又は調査の対象とならないまま地券の発行がなかつた場合であつても、地券の発行がなかつたことや官有地に編入されたこと自体によつて、当該土地の所有権者がその所有権を喪失したということはできない。
しかし、前に説明したような道頓堀川敷地については、当時申請人の先代等においてのちは近代的土地所有権に移行すべき私的な土地支配権を有していたことの疏明がないのであり、却つて道頓堀川そのものが江戸時代も一般公共の用に供せられ、その維持管理も幕府がその責任において行なつていたと一応推認されたから、その場合道頓堀川敷地は、前記太政官布告第一二〇号の「官有地第三種」に該当する「民有ニアラサルモノ」として、近代的土地所有権制度の確立と共に国有に帰したとみても、必ずしも不当とはいえない。
(二) 申請人は、道頓堀川敷地が国有であるとすれば国有財産台帳にそれが登載されていなければならず、道頓堀川敷地についてその登載がないことは道頓堀川敷地が民有地であることの証左である旨主張し、被申請人等においても道頓堀川敷地が国有財産台帳に登載されていないことは自認している。
道頓堀川敷地は明治に入つて旧河川法の適用される河川とならなかつたから、その敷地は私法上も国家の所有権の客体となり得たのであり、国有の不動産である以上国有財産法の適用があることは疑いを容れない。しかし、国有財産法はいうまでもなく国有財産の管理のために設けられた法律であり、同法による国有財産台帳への登載の有無と当該財産が国有に属するかどうかの判断とは直接関連がない。なお、国有財産法施行令第二二条の二には国有財産法第三八条の規定により法第四章(台帳、報告書および計算書)の規定を適用しないものとして、「公共用財産のうち公園又は広場として公共の用に供し、又は供すると決定した以外のもの」が掲げられているから、道頓堀川敷地は現在国有財産法の台帳に関する規定の適用はうけていない。
又申請人は、被申請人大阪市が昭和二七年刊行の「昭和大阪市史」の記事中に昭和元年大阪市内に道路運河その他の民有免租地が合計一、九五四・二五ヘクタールある旨掲載されていることが、道頓堀川敷地が民有地であることの証左である旨主張し、成立並びに原本の存在に争いがない<証拠略>によると、申請人主張の「昭和大阪市史」の記事中に申請人主張の掲載事実があることが認められるが、この民有免租地中に道頓堀川敷地が含まれているかどうかは必ずしも明らかではないし、いずれにしてもこの記事によつて道頓堀川敷地が民有地であるかどうかを決することはできない。
四、以上説明したところにより、道頓堀川敷地について申請人が所有権を有するとの申請人の主張はその疏明がないことに帰するが、保証を立てさせて疏明を補わせることができるかどうかについて判断する。≪証拠略≫によれば、被申請人大阪市において現に実施を予定している道頓堀川河川改修工事は、大黒橋以東の東道頓堀川について、現存の石積護岸が沈下して、大阪湾の高潮、大潮の際にしばしば河水が溢水し、沿岸家屋に浸水被害を与えるのと、沿岸家屋からの下水の流入等により河水の汚濁が年々ひどくなつていること等の理由によつて計画されたものであり、工事の内容は、両岸の現在の官民境界からそれぞれ七米の河中に新たにコンクリート壁の防潮堤を築造し、それと旧石護岸との間を埋立て、埋立地に下水管を埋設し、沿岸家屋から排出される下水を遮断して河水の浄化を計り、被申請人大阪市の財政難のため埋立によつて得る約二、四七五坪の土地を売却し、工事施行の財源とするというものであることが認められる。
そうだとすれば、この工事の施行が地域住民の福祉並びに大阪市将来の発展に直接至大の関連を有するものであることが明らかであり、かかる工事を仮に不当に阻止したとすればこれによつて損害を被るのはいわば公共そのものであり、かかる公共的損害は必ずしも金銭的補償によつて償い得ない性質のものであるといわざるを得ない。
よつて申請人の本件仮処分申請は被保全権利についての疏明がないことに帰し、保証を立てさせて疏明を補わせることは相当でないから、爾余の争点についての判断を省略して、これを即下することし、申請費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。(宮崎福二 田中貞和 北谷健一)